連載第2回 (⇒前回を読む)
2 近代と植民地主義
■近代のポストコロニアルな批判 戦前から戦後への転換を通じて日本近代に潜む植民地主義を究明する方法論的手がかりを与えてくれるのは、ポストコロニアル研究である。
この研究は、植民地主義を近代史における帝国主義時代のような特定の時代と結びつけるのではなく、近代社会につねにつきまとう無意識の集合意識としてとらえようとする。そしてこの研究は、植民地統治の被統治者よりも統治する主体のまなざしに目を向け、このまなざしが統治する主体と被統治者との関係を構築することに注目する[1]。
E・サイードの『オリエンタリズム』[1978]によれば、東洋とは、西欧人が見知らぬ他者と出会ったとき、この他者を自己よりも劣等の存在として、あるいは自己の過去に他者を投影し、自己のかつての未熟な存在と他者を同一視して、その存在に「オリエント」と名づけたことに由来する。東洋をこのように命名することによって、西欧人はみずからの西欧社会をオリエントとの関係において定義する。
「自分にとって他者をオリエントとして描くこと、それは他者を自己よりも劣った存在として描き出し、かつ他者を画一的にとらえる西洋の思考様式にほかならない」(邦訳116頁)。

インド・「セポイの乱」の漫画(イギリス)
「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し抑圧するための西洋の様式」(邦訳116頁)である、と。
オリエントとは、西洋が非西欧地帯を統治するために創出した他者であり、西洋はそのような他者を創出することによって自己を近代社会として創出する。つまり、植民地主義とは、見知らぬ他者との出会いを組織する特異な方法であり、その他者を統治の対象として支配者のまなざしでとらえる思考態度にほかならない。
したがって、このまなざしは近代社会にたえずつきまとい、自己と他者を支配-従属の関係として創出する回路となる[2]。
逆に言うと、このまなざしから解き放たれたとき、自己と他者のあいだにはるかに豊かで多様な関係が創出される。植民地主義はこの豊かさをはらんだ関係をきわめて貧相で一元的で暴力的な関係に還元してしまう。
ポストコロニアル研究は、近代社会が無意識のうちに生み出している植民地主義のまなざしを暴きだし、その批判的な解読を通してこのまなざしから自己を解き放つ必要性を提起する[3]。
植民地主義を「植民地を文明化すること」とみなす植民者の主体のまなざしと意識に批判的な照明を当てて、宗主国のポストコロニアルな批判を展開したのが、西インド諸島のマルチニークでネグリチュード(黒人性)の運動を推進したエメ・セゼールの『植民地主義論』[1955]である。
「植民地化がいかに植民地支配者を非文明化し、痴呆化/野獣化し、その品性を堕落させ、もろもろの隠された本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を、倫理的二面性を呼び覚ますか」(同、邦訳125頁)。
■植民地主義は被植民者を「文明化」するのではなく、植民者を野蛮化する
植民地化は「文明化」の名においてそれとは正反対の行為を遂行することによって、文明を野蛮に転ずる。そしてそのことを通して、植民者自身を野蛮化する。植民地主義は、他者を野蛮視することによって、自己と他者の関係を人間と野蛮の関係とみなし、そのことによって自己を獣に変ずる。「植民地化する者は、自らに免罪符を与えるために、相手の内に獣を見る習慣を身につけ、相手を『獣として』扱う訓練を積み、客観的には自ら獣に変貌していくものだ」(同、邦訳132頁)。
このようにして、植民地化の過程を通して、植民者と被植民者との排他的で一元的な関係が生産され、「文明」と「野蛮」の二極化が固定され、深化させられていく。
「植民地化する者と植民地化される者のあいだには苦役、威嚇、抑圧、警察、課税、略奪、強姦、文化強制、蔑視、不信、高慢、尊大、粗野、思考力を奪われたエリート、堕落した大衆しか存在しない」(同、邦訳133頁)。
重要なことは、この植民者と被植民者との関係が、西欧近代社会の外の関係にとどまらず。西欧近代社会そのものを内側から形成する原理となったことである。
人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、労働者の搾取の源泉であるマルクスの剰余価値の概念が植民者による被植民者の自由時間の収奪に起源を置くことに注目する。
西欧社会はこの植民地主義の関係を西欧社会自身のなかに内面化して、他人の労働時間を盗む資本・賃労働の制度を創出した。
レヴィ=ストロースはマルクスの剰余価値論をこの視点から読み解く。
「植民地支配は論理的・歴史的に資本主義に先行すること、そして資本主義体制は、それに先立って西欧の人間が土着の人間を扱ったやり方で西欧の人間を扱うことにある」(渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース』[2009]178頁)。 レヴィ=ストロースが洞察したように、マルクスは『資本論』第一巻第二四章「いわゆる本源的蓄積」において、ヨーロッパの賃労働制の起源が植民地主義にあることをつぎのように語っている。
「総じていえば、ヨーロッパにおける隠ぺいされた奴隷制[賃労働制度のこと―引用者]は、その脚台として、新世界における露骨な奴隷制を必要としている」(河出書房版邦訳595頁)。
本論でこころみるのは、植民地主義を内面化する西欧近代社会の社会形成のこのような原理が、日本近代の形成過程においてどのようなかたちで貫かれているかを検討することである。<次号につづく>
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[注1] 沖縄に対する本土の日本人の〈無意識の植民地主義〉を告発する野村浩也[2005]は、沖縄問題は日本人問題であるとして、日本人の沖縄を見る眼差しのうちに植民地主義を読み取る。「ポストコロニアル研究とは、第一に植民者を問題化する学問的実践である」(23頁)。
[注2] その意味で、「植民地主義はあらゆる場面、あらゆる次元でわたしたちに付きまとって離れない」ものであり、「国家や社会のあらゆる部分、あらゆる組織の中で発生し機能している」ものであり、「自己の身体や内面で育成され、時に他者に向けて強力に発散されて他者を傷つける」(酒井直樹『思想』2015年7号22頁)ものである。
[注3] したがって、ここで「ポストコロニアル」と言うのは、植民地主義が終焉した後のことを意味するのではなく、植民地主義の根源に潜む人と人との関係に着目し、自己が他者に向ける眼差しの批判的な解読をこころみる方法と言える。
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【参考文献】
- 渡辺公三[2009]『闘うレヴィ=ストロース』平凡社
- 若森みどり[2015]『カール・ポランニーの経済学入門』平凡社
- セゼール A.[1955]砂野幸稔訳『帰郷ノート・植民地主義論』平凡社
- 姜尚中編[2001]『ポストコロニアリズム』作品社
- K.マルクス[1867]長谷部文雄訳『世界の大思想第18巻・資本論1』河出書房新社
- 本橋哲也[2005]『ポストコロニアリズム』岩波新書
- 野村浩也[2005]『無意識の植民地主義』御茶の水書房
- 酒井直樹[2015]「パックス・アメリカーナの終焉とひきこもりの国民主義」『思想 1095号』岩波書店
- サイード,E.W.[1978]板垣雄三・杉田英明監修、今井紀子訳『オリエンタリズム 上下巻』平凡社