はじめに-新企画「青年たちは、今」について(編集部)
京都、大阪、東京で活動する20代の青年活動家たちに紙面を開放し、自由に語っていただいた前号の座談会。その後の反応は、若い世代からは概ね評判は良いそうですが、旧世代からは「(言葉や討議に)ついて行けないが、青年に今後も紙面を開放してはどうか」などと、意見が寄せられました。
いずれにしても、時代と未来の希望は、次代を担う若者たちの闘いにかかっています。その意味で、「旧世代」の「常識」や「思考方法」にとらわれないその価値観や感性をもって自由に語り、問題提起しあう一つの場として、紙面を開放することにしました。今後は、青年の手による取材やインタビュー、論文の紹介、提言などなど、自由にこの紙面を創ってもらいます。どんな紙面になるか、ご期待下さい。なお、写真や見出し付けなどは、編集部の責任で行っています。
「回転」
中田省二
青年座談会(前号)に続いて
立春とはいいながら寒さが厳しいこのごろ、いかがお過ごしでしょうか?
定期的に青年の文章をコモンズに載せて頂けると聞き、編集部および読者の方々にはひとかたならぬご厚意にあつく御礼申し上げます。私はその青年の文章を執筆する者です。こんにちは。
先日の青年座談会で話し合ったことを改めて文面で眺めていますと、思い上がりや卑屈さが入り混じっていて、アリストテレスの述べた「恥は若者にとって名誉であり、老人には屈辱である」をつい思い出してしまいました。今回は座談会から少し続きつつも、また異なるお話を書かせていただきます。
「多様性」の包む世界で、何が起こっているか
現実の世界は、「多様性」の中にあります。この言い回しをすると、「資本主義の犬に成り下がったのか」とまるで親の仇のごとく批判される時がありますが、あくまで個人的な尺度であることをご理解していただきたいです。
まず、少なくとも後退していることはないと言えるでしょう。身近なところで言えば、多目的トイレの数は10年で倍近くに増えております。大きなトピックとしては、渋谷区で同性パートーナーシップ条例が可決されました。かつて言われた、「資本主義のままではもっと悪くなる」といった論理は誤っていたと言って良いでしょう。(もちろん、このままで完全に差別等が解決するとは考えておりません。)
西洋をはじめとしたLGBTにおいての議論が進み50種類の性別が生み出されました。日本では抑圧への抵抗手段だった「表現の自由」が差別主義者にも使用されるようになり、街頭でヘイトスピーチを行っています。
近年、「あいつにやられた」と勇猛果敢に叫んでいる人や集団を左右問わずに目にします。例えば「在特会」のような差別主義者団体は、日本が朝鮮民族に支配されていて、本来の権利を奪われている「被害者」という立場から差別主義を肯定しています。他にも「被害者であることの無実さ」への競争は留まることを知らず、女性差別の話が巷で話題になれば、女性との交際経験のない男性を嘲笑する言動が差別的であるという議論が始まる。誰もが「被害者であることの無実さ」を欲しています。
どうやら、「多様性」の包む世界では、「被害者」の「無実さ」が最大の発言権を手にしているようです。では、このような「被害者であることの無実さ」は、どうして使われるようになったのでしょうか。
「在特会」及び関連団体の行うヘイトスピーチに反対の意思を公表する、リベラルな学長をお見掛けしました。たいへん立派な方だとは思います。しかし、学内で学生運動に従事した学生を除籍処分にしたことには驚きました。
他にも、同じようにリベラルな校風を掲げている大学がダイバーシティー(多様性)推進を発表し、多目的トイレの増設、学生証に性別を記載するのを止めたそうです。先んじて反差別としての大学を作っていくのは、素晴らしいと思います。そして先と同様に、彼らは大学の学生自治会を一部の不正を原因に潰しました。