書評『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)
人間という「存在」に迫る寓話―評者 大野和興

never-let-me-go
 物語は今年31歳になるキャシー・Hの回想から始まる。彼女は介護人として来年でもう12年になる。
 丘の上の瀟洒な建物。ヘールシャムと名付けられたここは、全寮制の学園のようにみえる。
 敷地のなかには池があり森がありポプラ並木がある。そこで寝食をともにする十代の多感な年頃の男の子たち、女の子たちの世界。その日常がキャシーの日記風の回想形で淡々と綴られていく。仲良しどうし、ちょっとしたいじめ、仲たがい、仲直り、先生の品さだめ、宝物自慢、勉強…。

 限りない未来がひらけているかにみえる少年少女たち。読み進むうちに、読者はその淡々とした日常の営みのそこそこに裂け目があることに気づく。はじめはちょっとした違和感を感じるだけ、うっかりしていると、けつまずく程度のものだ。
 それが度重なると、いつしか日常の空間を覆う壁に裂け目がみえるようになる。ついのぞきこんでしまう。
 その先に拡がっていたのは、巨大な虚無の海。
 キャシーが日記のように綴る学園生活のあれこれの、たわいのないエピソードの積み重ねの中で、真実が読者の前に徐々に明らかになってくる。

 子どもたちが。13歳のころ、学園では性教育が始まる。等身大の骨格見本でセックスとはどうやってするのかが、何をどこにどうやって挿入するのか、といったことがリアルに教えられる。
 そうした性の話題にかこつけて、自分たちは子どもが産めないということが刷り込まれていく。
 「提供」という特別に意味のある言葉も、そんな中で、それに触れてはいけないというなんとなくの空気とともに彼ら彼女らの心に忍び込まされていく。
 それでも、ヘールシャムを出ていく日が近づいてきたころ、彼ら彼女らは集まってはこんな仕事をしたいとか、こんなところで働きたいとか熱心に語り合う。

 学園を卒業した若者たちは、まず介護人になる訓練を受ける。
 誰を介護するって?ここまで読めば誰でもわかる。同じヘールシャムの仲間のクローン人間を、だ。

「命」を人間につなぐクローンたちの在り様

 ある期間を介護人としてすごし、いよいよ提供者になる。何を提供するって?臓器を、だよ。誰に。もちろん人間にさ。
 提供は4回が限度。ヘールシャム時代からの友人ルースはキャシーの介護を受けながら2回の提供で死んだ。
 あのヘールシャムはそのころには閉鎖されていた。

 ヘールシャムっていったい何だったのだろう。キャシーは当時の教師とめぐりあう。
 そして、そのことを聞く。臓器提供計画とそのためにつくられた生命体の存在。少数の人権活動家が彼らも人間であることを人々に知らせるために、感受性豊かで理性的な人間に育てる場がヘールシャムだった。

 だが、少数者の運動では事態を止めることはできなかった。教師は語る。
 「こういうことは動きはじめてしまうと、もう止められません。癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます?…そう、逆戻りはありえないのです」

 ノーベル賞作家が描く世界は、すでに現実のものとして目の前にある。いま、私たちはクローン猿を作り、ゲノム編集の生物が実用化した時代を生きている。

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