連載】天皇制と闘うとはどういうことか・補論 第二回
(前号からのつづき)
2.天皇制と日本資本主義(1)
菅孝行(評論家、変革のアソシエ運営委委員)
資本制と統治形態
前回の連載で十分に展開できなかった最大のテーマは、戦前・戦後の二つの天皇制という統治形態と、日本資本主義との関係である。そこで、2回にわたり拙著『天皇制と闘うとはどう言うことか』(航思社刊)の「あとがき」の一部を引用して連載の論旨を補うことにする。
近代国民国家の統治形態は、概ね共和制と立憲君主制に二分される。国連加盟193か国の中、君主制国家は30か国に過ぎない。しかし、「先進」資本主義国家の中では必ずしも共和制が大多数というわけではない。イギリス、スペイン、北欧諸国、ベネルクス三国、日本などは現在でも立憲君主制である。また、君主あるいは君主に類する独裁的権力を維持している有力な国家がイスラム圏に幾つか散見される。逆に第二次世界大戦以降に独立したいわゆる「新興国」では、実質はどうあれ形式上の統治形態は共和制が主流である。
国民国家の統治形態の「選択」は、その国家の下で資本制を発展させる原動力となった階級ないし社会的勢力の性格によって決まる。他国と戦争し敗れた場合の敗戦国の統治形態は、戦勝国の占領統治の意図によって左右される。
「維新」の権力と資本制
「維新権力」の統治は天皇の権威に依拠した下級武士による実効支配で始まった。「維新」の権力移動自体はブルジョワ革命ではない。しかし、天皇の「神権」を背負った「維新権力」(太政官政府)が推し進めたのは、急速な資本主義化であった。
太政官政府は版籍奉還(1869年)から廃藩置県(1871年)の過程で、旧幕藩体制下の領主と藩士の主従関係を切断し、武士階級を没落させ資本主義的な労働力を産出する一方、幕藩体制下の藩主は華族に叙して明治国家の新しい特権層へ横滑りさせた。72年には土地永代売買を解禁し、73年には地租改正、75年には秩禄処分を行って近代的土地所有への道を開いた。
この過程で急速な本源的蓄積が推進され、第一次産業革命が開始された。
1872年には鉄道敷設が開始され、富岡製糸工場が設立された。国営で次々開設された工場が、74年から十数年かけて次々と民間の財閥に払い下げられた。業種は製糸・紡績・製糖・麦酒・硝子・炭鉱・鉄山・銀山・銅山・造船・鉄道など多岐にわたった。
金融資本の育成も政府が主導した。国立銀行法が1872年に制定され、1882年には日本銀行が設立された。江戸時代の大手両替商であった三井、住友、鴻池が明治期の財閥へ移行した。明治に入って成立した財閥には、三菱、渋沢、安田、浅野、大倉、古河などがある。
この過程から明らかなことは、日本資本主義は天皇の神権によって正統性を担保された権力によって育成されたということである。その結果、「維新」からさほどの時を経過せずに、高度な資本制経済が成立し、権力に育成された独占資本が市場を支配した。
明治憲法と資本制
自生したブルジョワジーによる市民革命で樹立された欧米の近代国民国家の場合は、資本主義化の推進をブルジョワジーの「権利」として自己正当化する国家構想を持つので、自由と人権の保障が統治の原理に組み入れられ、経済による自然淘汰の正当化と政治的権利保障が均衡する。「神の見えざる手」と「道徳感情論」の思想が併存するのである。
「明治国家」には、後者が著しく欠落していた。憲法制定に際しても、国民主権・基本的人権・立憲主義といった近代政治の基本を形作る観念はネグレクトされた。その結果、日本社会の近代化は過酷で一面的な淘汰の論理で推進され、高度な資本主義が定着した。
治安維持法が改訂された時(1928年)、国体の変革と私有財産の否定を目的とする行為の最高刑が死刑とされたのは象徴的である。私有財産は「国体」と一体と考えられ、「国体」と等しく不可侵とされたのである。
戦前の日本資本主義批判
日本資本主義を解体の対象としてはじめて本格的に論じたのは野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』である。野呂とコミンテルンとの関係が生じる前に執筆されたその「第一部」のなかで、野呂は次のように述べている。
明治維新は明らかに政治革命であるとともに、また広範囲にして徹底せる社会革命であった。それは……単なる王政復古ではなくて、資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革であった……明治維新が、反動的なる公家と、同様に本質的には封建意識を脱却しえない武家との意識的協力によって遂行せられたということは、……わが政治的組織が長く今日に至るまで反動的専制的絶対的性質を揚棄しえないゆえんである。
(『野呂栄太郎全集』上、新日本出版)
飯田鼎が「野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』研究」(慶応義塾経済学会 三田学会雑誌)で指摘する通り、当時の野呂は、「わが政治的組織が長く今日に至るまで反動的専制的絶対的性質を揚棄しえない」ことを認識しつつも、「明治維新」を政治革命であるだけでなく社会革命として認識しており、その「革命」の性格を、ブルジョワ革命と考えていた。野呂にとって次の革命は社会主義革命しかありえなかったと飯田はいう。
コミンテルンと野呂の共鳴
27年テーゼには、これと対応する次のような記述が存在する。
1868年の革命は日本における資本主義の発展の道を拓いたものである。然しながら政治権力は封建的要素たる大地主、軍閥、皇室の手中にあった。日本国家の封建的特質は単に前期過去の伝統的残存物、廃物的遺物に過ぎざるのみならず、それは資本主義の原始的蓄積にとって極めて便利な道具であった。日本資本主義は、その後の発展の全過程にわたってこの道具を巧妙に利用した。
(山辺健太郎・石堂清倫編『日本に関するテーゼ集』青木文庫1964年)
飯田は、この段階における支配構造について、「27年テーゼ」が「現代日本は資本家と大地主とのブロック、しかも覇権が資本家に属するブロック―により支配せられている」(同)とあること、更には「日本においてはブルジョワジーがすでに権力を握っており……日本の資本主義発展の水準がすでに著しく高度に達し、ここにおいてブルジョワ革命は直接に社会主義革命、すなわち資本主義それ自体に対する革命に迄発展するであろう」(同)としている点に着目する。
また、統一戦線の問題に関連して「天皇制は重要な役割を与えられず、労農同盟の直面する問題が、天皇制の打倒にあるとは全く述べられていない」(飯田、前掲論文)ことに注意を喚起する。
野呂の修正と反ファシズムの労農同盟
しかし、その後、野呂は自らの理論の一部に重大な変更を加えはじめる。飯田によると、転換の契機となった論文は、「日本資本主義発達の歴史的諸条件」(1927年12月『野呂栄太郎全集』所収)である。
野呂は、明治維新がブルジョワ革命であったとする立場を修正し、小作料が資本主義的地代ではなかったという「後進性」をもって、明治維新の性格を絶対主義と定義する立場へと移行を開始する。維新の性格のみならず、1920年代の日本社会における小作料も封建的性格であると強調した。やがて、地代の性格をめぐって労農派の櫛田民蔵と野呂は激しく論争した。
野呂の「変化」は、コミンテルンの32年テーゼを先取りする性格を有するものだった。それは、コミンテルンが、ヨーロッパでのファシズムの台頭に直面して、全世界的なプロレタリア革命の発展よりも、反ファッショ統一戦線を重視せざるを得なくなったことと関連している。
反ファッショ統一戦線とは、端的に言えばファシズムと立ち向かう労農同盟のことである。この同盟には共通の敵が不可欠である。32年テーゼでは、統一戦線の共通の敵として「天皇制打倒」が強調されることとなったと飯田は見る。共産党員の任務を一義とした野呂は、このような政治的な動機から、自身の理論を修正したと考えられる。
(次号につづく)