大平 達郎「復興・協同」通信 No18 (2014・6・19 )
はじめに
夢のなかで連呼する叫び声を聞いた。「早く逃げてください!!」
3・11 から3年を迎える2 日前の平成26 年3 月9日、私はバス・電車と乗り継ぎ鉄骨だけになった南三陸町防災対策庁舎前に正座し合掌した。
巨大地震発生時の新聞・TV 放送の記憶が甦り自分の思いを重ねて記す。
1・ 南三陸町防災対策庁舎の悲劇
すさまじい地震と津波の襲来に幾多の生命が呑み込まれ、割れ、 傾き、 ながされ泥流に押しつぶされたガレキの大地。歴史と文明の背骨を砕かれ壊滅的な被害を受けた。特に南三陸の商店街や民家の建物・山林が大津波により流された被害は大きい。南三陸町の死者数は619 人、行方不明者は216 人(南三陸町ホームページ2014 年6 月19 日による)。尊い命が犠牲になるとともに、町役場が跡形もなく壊滅し、多くの町職員や警察官、消防職員も行方不明となった。
そうした中で津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた危機管理課防災無線放送担当の遠藤未希さんは最後まで声を振り絞って「早く逃げてください」、「早く逃げてください」、「6 メートル強の津波がきます!」と連呼した。
地震から約30 分後、高さ15 メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10 人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。
地震直後、芳賀タエ子さんは「6メートル強の津波があります。早く逃げてください!」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。
芳賀さんは避難をしていた未希さんの母親、遠藤美恵子さんの手を握りながら感涙して言った。「娘さんの声がずっと聞こえていたよ」
高台から見下ろす街は濁流にのみ込まれていた。3 階建て庁舎は、1995年の阪神大震災を機に建設された。「高台に立てた方がいい」という議論もあったが、“役場への近さが優先”された。地震直後に入った津波の予想は、高さ6メートル。防潮水門は5・5メートルほどある。「6 メートルなら大丈夫。万が一、波が水門を越えても、屋上に逃げればいい」。防災をになう職員の共通認識だった。
午後3 時20 分過ぎ、「津波が来たぞ」と声が上がる。町長が屋上に上がると、防潮堤を乗り越えて波が入り、海岸近くの家が破壊されていくのが見えた。「こんなはずはない」と思ったとき、逃げ道はなくなっていた・・・。津波は第1 波で庁舎をのみ込み、全ての壁と天井を打ち抜いた。
第2波、第3波は鉄骨の上まで達し、無線アンテナなどにしがみついて耐えた人だけが助かった。「屋上には30 人ほどいたが、気が付けば8 人しか残っていなかった」という。
何故この悲劇が!
私の尊敬する作家は吉村昭氏である。理由は、吉村氏は徹底的に文献を調査して納得いかねば「一人旅」で調査をされるからである。
文芸春秋刊「ひとり旅」(2007 年7 月31 日、第1 刷発行)が最後の随筆集となった。後世に津波の恐ろしさを記して警告を発している内容なのである。
次の記事を読めば、防災対策庁舎は高台に建設していただろうと思う。以下、大津波に関係する記事を抜粋。
◇ ◇ ◇ ◇
【高さ50 メートル 三陸大津波】
「私が定宿にしている本家旅館の女主人からは、津波の襲来前、海水が急激に沖にひいて海底が広々と露出したこともきいた。おそらく海草がひろがっていると彼女は思ったが、海底は茶色い岩だらけであったという回想に、生々しさを感じた。
私の胸に動くものがあり、この津波災害史を書いた人は誰もいないことから、徹底的に調査してかいてみようとおもい立った。」(27 頁)
「私は、この調査の旅で明治29 年の津波の体験者2名に会って回想をきくことができた。その1人は講演会場のホテルのある羅賀に住んでいた85 歳の中村丹蔵氏であった。私は、村長の案内で山道を登って氏の家におもむいた。眼下に海がひろがっている。
私は、ノートに氏の証言をメモしつづけたが、津波が来襲した時、轟音とともに海水が入口の戸を破って畳の上に流れ込んで来たという。
その言葉に村長は驚きの声をあげ、小庭に出ると海を見下ろし、〈驚きましたなあ。海面から50 メートルはある〉と呆気にとられて言った。」(29 頁)
◇ ◇ ◇ ◇
この村長が防災対策庁舎を建設したとしたら当然高台に作っただろう!文芸春秋刊「ひとり旅」を読んでいない方は是非読んで欲しいと思う。特に官公庁の方々には防災の教科書として反芻して読んで欲しいと思う。
人はなぜ歴史の教えを学び、実行しないのだろう?人間は性懲りのない生き物なのか、歴史という気の遠くなるような時間を費やしてきたにもかかわらず、 「『いのち』とは、何か」の質問に答えられない。永遠に!悲しい!
2・ 復興
官公庁は復興予算を組んだものの、いまだ依然とし被災地の復興は進んでいない現状を、現地に行って強く感じた。一方、全国から救援に駆けつけてくれた善意に満ちた人々の偉大な力に感動したのである。そのなかでも近畿地区生コン関連団体から建設資金が寄付され、地元・南三陸町の杉材を使用した共同食堂が今年1月にオープン完成したことは、とくに注目される!
共同食堂「松野や」の建設が始まったのは昨年の11 月。南三陸町では、全国生協のパルシステムが支援し、被災者の住宅再建を地元の木材を活用してすすめようという試みが始まって、その第1 号が、近畿の生コン業界も応援してきた共同食堂「松野や」である。私は防災対策庁舎で冥福を祈ってからこの「松野や」食堂に向かった。道々には亡くなられた方の墓標に花束、お線香の香が延々と流れていた。その災害の大きさを語っているように思えた。冥福を祈りながの道のりであった。
12 時30 分「松野や」食堂に着いた。
店の空気は磯の香りで満ちていた。名物海鮮うどんが運ばれてきた。やっと我に返った。合掌して箸をとりすすった。素晴らしく旨い唾液がドッとでてくる。
私のテーブルに来た背が高くて、肩も胸もがっしりしているイケメンの若者2人が相席を私に問うた。
「ボランテアですか」。「いいえ海水放射能調査と海生々物調査です」。私はなにか心が高揚してきた。「どうですか結果は」。「放射能はないです」。よかったと思う。さらに、「海は50 年前に戻ったと言われています」。海生々物、海藻類の生育が早いのです。さらに多く育っています。
海底の泥が陸に流されて、きれいになったためだと思うと!
私は上気し鼓動が打つのを感じた。 (次号につづく)
(「『復興・協同』通信」18号より転載しました。―編集部)