第20号(2010/2/1)●7面
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■連載(寄稿)

協同組合運動とは何か(17)
イギリス協同組合運動の歴史 A

ロッチデール協同組合の建物。今は博物館

増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事)

先駆者組合

 イギリスには「飢餓の40年代」と呼ばれる歴史があります。19世紀イギリスは高い生産力で資本家は富と繁栄を手に入れます。一方、労働者は何ら社会的規制の無いまま、過当競争(男性成人労働者・女性労働者・児童労働者)による低賃金で劣悪な労働環境を強いられます。その中でも、現金を持たない多くの労働者に対し、日常生活用品を掛売りで縛りつけ、法外な利益を得たり、混ぜ物を入れたりする雇用主や商人が横行していました。
 さて、ロッチデール公正先駆者組合の起源は、フランネル織布工達によるストライキの失敗の結果、オウエン派社会主義者たちが作ったロッチデール友愛組合です。
 先駆者組合は、オウエン派の思想と実践を受け継いでいました。めざすのは、@食料・衣料品などの販売店舗の開設(消費者協同組合)、A住宅の建築(住宅協同組合)、B雇用創出のために先駆者組合が販売する商品の生産(労働者生産協同組合)、C雇用創出のために農地購入し組合員が耕作(農業生産協同組合)、D生産、分配、教育及び統治能力を備えたコミュニティの建設(協同コミュニティの建設)、E禁酒ホテルの建設(組合員の社会的及び家庭的状態の改善)でした。
ロッチデール協同組合の13人の創始者たち

8原則

 「ロッチデール型協同組合」は、小売店舗による消費者の協同組合として成功していきます。ロッチデール公正先駆者組合が順調に発展できたのは、組織と運営に関する有名なロッジデール8原則を決め、守ったからです。
 第1原則は民主的管理。組合員は、出資の多寡に関係なく、一人一票の議決権を有する。第2原則は組合の門戸開放。誰でもいつでも少額の出資金の頭金を支払えば組合員になれる。第3原則は出資配当の制限。第4原則は購買額に応じた純益の払い戻し。第5原則は現金取引。第6原則は公正な品質を有する物資のみ取り扱う。第7原則は教育の促進。第8原則は政治的宗教的中立。
 協同組合運動は、誰でも組合員になれることと購買額に応じた純益の払い戻しが結合することによって、急速な発展を遂げました。価格の決定は市価を基準とし、収益があった時は、利用高に応じて組合員に払い戻したのです。
 また、民主的な管理と出資配当の制限によって、外部の株主にのっとられることも防ぎました。さらに、教育の促進とあいまって、組合員は協同組合運営の方法を身につけていきました。
 さて、当時の商人は粗悪な食料品や衣類などを売りつけていました。協同組合の高品質な品物は社会的評価を高めたのです。また、当時、労働者は掛買いで特定の商人に縛りつけられ、生活が安定しなかったのですが、現金取引がこれを是正し、同時に、組合の貸し倒れを防ぎ、資金繰りを良くし、合理的運営を可能にしたのです。
 1844年、28人28ポンドで始めてから、20年後には、組合員が10万人、総売上高250万ポンド。さらにその20年後、組合員が50万人、総売上高1550万ポンドと増加し、19世紀末には、組合員が170万人、総売上高5000万ポンドを超えたのです。特に、第1次世界大戦末には、組合員が300万人、総売上高8800万ポンドとなりました。
1920年ころのロッチデール協同組合

成功の戦略

 急成長の要因として、客観的な経済成長やインフラ整備もありますが、主体的には2つの戦略があげられます。
 第1は、支店という形態での店舗展開です。当時の小売業は週に一度の市場、掛売りに特化した小商店、行商人や小さな直接販売など、小規模かつ販路を一つしか持たない状態であり、急激な都市化に対応できていませんでした。
 当初、先駆者組合では、各地域で店舗を必要としている人々は自分たちで協同組合を立ち上げるだろうと想定していました。しかし、組合員たちは支店の開設を強く望んだのです。こうして、協同組合はイギリス最初の小売チェーンを展開していったのです。協同組合運動は店舗のチェーン経営のノウハウを身につけていきました。
 第2の戦略は、卸売協同組合連合会(CWS)を通じて協同組合の卸売業と製造業が統合され発展したことです。
地方からの報告 ……………………17(継続37)
朝鮮人・中国人
強制連行跡地を訪ねて

野添憲治

新居浜索道基地の跡
岩手教職員組合岩手支部の学習会活動

 昨年の10月、岩手県教職員組合岩手支部が主催する平和学習会「ピースバス2009」が秋田県大館市を訪れ、花岡事件の現場でフィールドワークをした。10回目のことしは岩手県内の小学生たち32人がバスに乗って訪れた。1回目から案内役をしているわたしは昼食後に事件の説明をしたあと、一緒にバスで現地を回った。
 小学生といっても、1年生から6年生までと幅が広い。現地を回っても最初のころは騒いで引率の教師に叫ばれているが、多くの中国人連行者が拷問・虐殺された施設「共楽館」の跡地あたりまでいくと、もう騒ぐ人はいなくなる。真剣に説明を聞き、終わると手を合わせて祈っている。最後に「中国殉難烈士慰霊之碑」で持参した花をささげ、黙祷したあとに感想を聞くと、「わたしたちと同じ日本人が、たいへん残酷なことをしたことに驚いた。戦争のない世の中にしなければいけないと思った」と答えてくれた。
 この学習会に参加する小学生たちは、毎回かわる。最初のころに参加した人たちは、もう高校・大学を卒業して社会人になっている。小学生の時にアジア太平洋戦争のなかで起きた強制連行の悲惨な事実を頭にしっかりと刻んでもらえたら、将来、平和や戦争を考えるとき、きっと役に立つだろう。だが、アジア太平洋戦争の時に沢山の朝鮮人・中国人強制連行が日本国内で起きたのだが、岩手県教職員組合岩手支部のような息の長い活動をしているところを知らない。

遺骨を拾い集めた小学生と教師がいた

 わたしは2001年12月から2009年1月までの足かけ9年をかけて、日本に強制連行された中国人が働いた作業現場135事業場を歩く「慰霊と取材の旅」をした。いまだに日本政府が中国人強制連行に謝罪も補償もしていない中国人強制連行の現場がどうなっているのかを自分の目で確かめると同時に、慰霊をしようと考えてはじめたのだった。途中で病気になったりして止めようと思ったこともあったが歩き終わり、その記録を昨年末に『企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から―』(社会評論社)として出版した。訪ねた現場は北海道58事業場、東北9事業場、関東・中部・近畿39事業場、中国・四国・九州29事業場で、炭坑や港湾、建設現場などである。多くの現場は廃墟になっており、現場の確認が困難な所もあった。地元の人たちからも忘れ去られ、強制連行の事実が記録されていない所が多かった。岩手県教職員組合岩手支部のような取り組みをしていることも聞かなかった。その中で1カ所、小学生たちが死亡した中国人たちの遺骨を拾い集めて埋葬した事実があった。
 そのことを知ったわたしはすぐ北海道に行った。旭川と稚内を結ぶJR宗谷本線の中ほどにある恩根内駅(中川郡美深町)に下車し、タクシーで旧小車水銀鉱山に向かった。しかし、多くの朝鮮人や中国人を連行して強制労働をさせた事業所跡に人を近付かせないように、災害が起きたことを理由に道を閉鎖していた。「跡地に植林した木が成長して、鉱山や墓地はわかりませんよ」と運転手に言われて引き返した。
 小車水銀鉱山で下請けをしていた土屋組天塩営業所では、1944年に300人の中国人を連行して来ると働かせた。だが、翌年の8月15日に日本の敗戦で強制労働が中止になるまでに47人が死亡した。支社は火葬にして小車共同墓地に埋めたが、生存者が中国へ送還される時に持ち帰ったという。ところが春先とか雨降りの後に、地面に沢山の骨が散乱していた。1950年の夏に近くの小車小学校の児童や教師たちが何日もかかって骨を拾い集めて1カ所に埋め、「無名華人の墓」と書いた墓標を建てた。のちに掘られて47の骨箱に納め、中国に送られたという。

強制連行跡地を廃墟にしないでほしい

 私が訪れた時は、この小車小学校は廃校になっていた。美深町役場にも寄ったが、美深町の中国人の遺骨を拾い集めた児童や教師の行方はわからなかった。しかし、50年ほど前の児童たちの行動はいまも細々とだが受け継がれていた。役場で対応した若い職員が、「遺骨を拾った子どもたちのことですね」と言っていた。仰々しくなく、埋もれているように小さくていいから絶えずに人びとの心に残っていることが、何かの時に大きな力になることがあるのだ。
 植林した木々が密生していてもいいので、その現場に行けなかったのをいまも残念に思っている。小車小学校の児童たちの行動は、9年かかった「慰霊と取材の旅」のなかで、中国人連行者を日本人が人間として受け入れた数少ない例の1つだったからだ。木々に埋もれていてもいいので、ぜひその現場を歩きたかった。
 全国にある中国人が強制連行されて働かされた135カ所の事業場を廃墟にしないで欲しいと、歩き終わったいま思っている。強制連行された約4万人の中国人の苦しみや悲しみを無駄にしない努力が、日本人に求められているからだ。


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