塩川喜信さんを偲ぶ会 10・29 明治大学で

白菊イラスト

塩川喜信さんを偲ぶ会 100名の参列でしめやかに

 10月29日(土)、塩川喜信さんを偲ぶ会が明治大学研究棟の一室で行われた。塩川さんは7月30日、肺炎のため81歳で急逝。

 この日参列した約100名の中には、元全学連、元トロツキスト運動、東大全共闘、助手共闘、旧フォーラム90s、トロツキー研究所社会理論学会PP研伊達判決を生かす会9条改憲阻止の会経産省前テントひろばちきゅう座現代史研究会など、塩川さんの活躍舞台の広さ、交友関係の深さを反映して多彩な顔ぶれがあった。

塩川喜信さんを偲ぶ会1 塩川さんの人生に大きな指針を与えたのは中学校時代に出会った山西英一氏である。
 終戦後、山西氏が戦前ヨーロッパから持ち帰って来ていたトロツキーの文書の翻訳出版によって、それまで左派のあいだでは忌み嫌われていたトロツキーが読まれるようになり、これが契機となってスターリンを絶対的に信奉してきたそれまでの若い共産党員たちに新しい視点を与えることとなった。
 塩川さんは戦後のこうした、スターリンの呪縛から解き放たれる新しい政治思想の開花期に青年時代を過ごし、そして東大に入学したのだった。

 塩川さんの歴史は戦後の政治運動史を観るようである。1955年、授業料値上げ反対運動に参加、56年には砂川闘争にも全学連の一員として参加した。そして58年には全学連委員長に選出されるとともに大学院博士課程に進み、66年には農業経済学科助手となったが、96年に定年退官するまで30年間助手のままだった。これは68年、東大全共闘運動に助手共闘として参加し安田講堂に立て籠もって闘ったことへの報復措置とみられる。

 やがてポーランドで東欧圏最初の大規模な闘争が起こるとともに「ポーランド資料センター」を結成。90年にはトロツキー没後50周年国際シンポジウムを中心的に組織。翌年トロツキー研究所を結成しその所長に就任した。現在までに雑誌『トロツキー研究』は68巻を数える。
 塩川さんはトロツキー研究に心血を注ぎながらも、ローザ・ルクセンブルクやグラムシの研究者など思想の別を超えた交流によって広く左派運動全体の発展に貢献してきた。

 伊達判決を生かす会の仲間であり、同学年で同じ全学連の盟友でもあった吉沢弘久さんは弔辞の中で、「弱者を放置しない社会正義を貫いた生涯だった」「常に明るく、酒をこよなく愛し、心の叫びで多くの聞き手を感動させた」「君の人間の大きさとふところの深さから、党派を超えて君への崇拝者、友人が多いことをあらためて知った」と讃えた。
 白川真澄さんはフォーラム90sで「脱成長」を提起していた塩川さんの先見性を語り、大野和興さんは農業経済の専門家でもあった塩川さんが農民ときちんと付き合う人であったと紹介した。他にも多くの人々が塩川さんへ惜別のことばを贈った。

 会の終盤では結婚49年目で亡くなられた塩川さんと啓子夫人のためにガブリエル・マリー「金婚式」が演奏され、つづいて「国際学連の歌」や「ワルシャワ労働歌」、そしてトロツキー研究家であった彼に敬意を表して「トロツキー赤軍の歌」などが歌われた。(東京M)

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塩川喜信さん死去 元全学連委員長
2016年7月31日(朝日新聞)
塩川喜信さんを偲ぶ会2 塩川喜信さん(しおかわ・よしのぶ=元全学連委員長)が30日、肺炎で死去、81歳。葬儀は家族で行い、後日、「しのぶ会」を開く予定。喪主は妻啓子(けいこ)さん。
 東大生時代に全日本学生自治会総連合(全学連)委員長を務める。60年安保闘争や砂川闘争に加わり、60年代末、東大農学部助手時代に全共闘運動に参加。神奈川大非常勤講師やトロツキー研究所所長を務めた。

訃報:塩川喜信さん81歳=元全学連委員長、元東大助手
2016年8月1日(毎日新聞)
 塩川喜信さん81歳(しおかわ・よしのぶ=元全学連委員長、元東大助手)30日、肺炎のため死去。葬儀は近親者のみで営み、しのぶ会を後日開く。喪主は妻啓子(けいこ)さん。

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